会社という砥石に五年も磨かれると、とがっていた石ころもいやでも丸くなる。そうならなければ組織の一員として通用しない。組織にとって有能な社員になることが、立派な社会人として成長することでもあった。
おそらく、いまでもこうした価値観はそれほど大きく変化はしていないだろう。そつなくこなす若手の台頭をみれば、組織への順応性ばかりが際立っているといってもよい。しかし、悲しいかな、時代の要求はその一歩先を行っている。従来型の優秀な社員の必要性は少なくなり、一昔前であれば、扱いにくい社員、共同体には向かない一匹狼的な社員がもてはやされる状況への変化が起こっている。
村社会であった組織が変化し、チームワークが最優先される社会ではなくなろうとしている。オリジナリティーという言葉に代表されるように、自己主張ができる社員が脚光を浴びる時代が到来しつつある。ところが、偏差値教育の中でのみ競争し、基本的には、「超」のつくほど徹底した平等教育を受けてきたものが、オリジナリティーを発揮できる可能性は少ない。
五年間で、立派な組織人になるということは、言葉を換えれば、完全に組織に飼いならされた社員になることでもある。いわゆる「指示待ち族」に成り下がっていくシステムにどっぷりと浸かっているようでは見通しは暗い。
できのいい社員、会社にとって都合のいい社員にだけはならないようにしよう。そうならないためには、少なくとも自分で考える習慣を身につける以外に方法はない。
与えられた仕事に対して、マニュアルを求める姿勢をやめること。課題を前に、自分なりの方法論を組み立てる努力をすること。
銀行のようなところでは、前例のないことには手を出さないのが、有能な社員になるための原則であった。その結果が、不良債権を大量に抱え込んでいても、まったく自覚症状のない組織への堕落である。組織人であることと同時に、その中でいかに自分なりに考え、行動できるか。いまこそ考えるという行為に執着すべきである。
講義を受け、復習をし、暗記するといった作業によって評価される。若い人たちが受けてきた教育が間違っていたことになるのだが、キャリアメーキングの鉄則は、自分で考える習慣をつけるところから始まるといっても過言ではない。誰も教えてくれない。だから、自分で考える。オリジナリティーへのこだわりを自覚しよう。