経営者の格差は、社員の生活を変容させる。一個人の権力欲や名誉欲のために、長時間労働や低賃金に泣いたり、不毛な派閥争いに消耗したり、自己実現を断念させられたりする。たまったものではない。
では、権力者の腐敗を防ぐ手だてはあるのだろうか。
私は、遠回りなようでも、一人ひとりが社内世論をつくり、企業風土を支えることで、ある程度は防げると思っていた。
カネボウでは、伊藤さんの変質に伴なって、売り上げの水増しなどが常態化し、ついにはそれが企業風土になって転落していった。早い時期に、独裁に抗する社内世論が生じ、ごまかしを許さない企業風土が根づいていればと悔やまれるのだ。
ただし、「独裁者に追従しないことで独裁を防ぐ」というのは、理想論に傾きすぎるかもしれない。権力者の腐敗を防ぐには、社外取締役を招聴する制度のほうが、まだ現実的かもしれない。
とはいえ、トップと何の利害関係もなく、公明正大で経営手腕もすぐれた社外取締役など、そういるものではない。私の見るところ、欧米企業か日本企業かにかかわらず、社外取締役には、関連会社の人間や、トップと何らかの関係のある人間が就任するケースが多いようだ。
となれば、これもチェック機能としては不十分であろう。
私は今では、権力の肥大と腐敗を防ぐには、トップが率先して「社長は会長にならない」という規則をつくったホンダのように、「期限を切る」ことが最も有効だと思っている。
たとえばヤマト運輸のトップだった故小倉昌男さんも、社長在任中に引退のルールをつくっている。
小倉さんは大変な苦労の末に宅急便を開発し、ヤマト運輸を業界トップ企業に成長させた功労者だ。また、創業者である父親は、八十一歳まで社長を務めている。小倉さんが何歳まで社長をやろうが、文句を言う人はいなかっただろう。
それなのに、増収増益が続いている中で引退のルール化を考えたのは、当時、多くの会社がワンマン社長の長期政権に悩まされていたからである。小倉さん自身は引き際みごとに社長の座をバトンタッチしても、後任や、そのまた後任の誰かがワンマンになるかもしれない。
そうなれば、会社は傾く。その懸念を払拭するために、自分が元気なうちにルールを決めておこうと考えたのだった。
ルールは、いくつかのエピソードを経て定着した。
まず、当初は定年を六十五歳にするつもりだったが、役員会には、たたき台として六十三歳で提案したことだ。「六十三歳では早すぎる」という声が出ると予想してのことだったが、誰も反対せず、そのまま決まってしまった。「しまった」とは思ったが、撤回するわけにもいかず、定年の第一号として一九八七年に会長になり、社長には創業家出身ではない都築幹
彦さんが就任した。
もう一つのエピソードは、会長から相談役になった小倉さんが、会社が肥大化して問題が生じたために、九三年に、二年間限定で会長に復帰したことだ。この時、目的を達して会長を辞した時、取締役からも身を引いている。その理由は、こうだった。
当初、取締役として残ることも考えた。だが、当時の社長・宮内宏二さんに「大変よくやっている。もっと自信を持ちなさい」と声をかけたところ、「役員会でみんなが誰の顔を見ているか、ご存じですか」と鋭く言われた。役員が宮内社長ではなく小倉さんの顔色をうかがっていることを知らされ、取締役の辞任を決断したという。
これは、なかなかできることではない。経営者には、会長や相談役になっても、自分が真の実力者だと自負する人が多い。そういう人は、役員や社員の顔が自分を向いていることをむしろ喜ぶ。こうして、社長の周囲は一種の無法地帯になってしまう。