私は組織の中ですでに40年という時間を過ごしてきた。だから、若い人たちに好きなことがいえる。偉そうにものを話すのではなく、自分の経験を素直に話せるという意味だ。実績に勝るものは何もない。だからこそ、自信をもって話していきたいと思う。
しかし、もし、いまの自分か25歳であったら何を話すことができるだろうか。おそらく、実績のない中で、精一杯に、将来の夢を語ることくらいだろう。おそらく、大きな夢を語っているという自負だけはある。
夢を語ってほしい。お金はないけれど夢はある。そんな時代を生きてきた者からすると、いまの若者は自分の言葉で語らない。黙っていることが美徳であるという感覚は、昔の人間よりも強くなっているのではないだろうか。声に出すことで生じるリスクをそつなくこなしてしまう。だから、そばでみていてつまらない。
好きな夢を語っていられるのは、小学生の低学年くらいまでかもしれない。高学年になると、誰に教わったのか、一気に現実志向に走る。有名中学の入試に合格した小学生のコメントを聞いていると、いったい何歳の人間が話しているのかと思うくらいに冷静で、建設的な考え方をもっている。
しかし、彼らが心の中に抱いているはずの、大きな夢を達成できそうな可能性をもっているようにはみえない。おそらく、優秀な成績を積み重ねて、医師や弁護士といった職に就くのだろう。そんな子どもたちをみていると、なぜかつまらない。同じようなことが、若いサラリーマンにもいえる。
すでに、社会人になった段階で、自分のレベルを決めつけてしまっている。あるいは、それ以上に自分が伸びていく可能性をあきらめ、ひたすら、安全な人生を歩もうとしているような、覇気のなさばかりが目立つ。フリーターをやっている人たちの中に、その可能性をみいだすことができるかといえば、状況はさらに悪化する。
世の中や人生に対して、何の関心もないとしか思えない。
そのくせ、自分自身の現状に対して不満を抱いている。そんな自分をわかってほしいといった甘えた言葉も聞こえてきそうだ。優しく、自分たちをみてほしいといったところか。実に甘えている。
私が25歳だったら、もっと、大きなことをいって、その実現のためにキャリアを磨く。おそらく、いまの時代であってもその姿勢は変わらない。キャリァメークの方法を、私なりに考えてみたい。そして、みなさんにも挑戦してほしい。素直に、耳を傾けてくれるだろうか。